高杉晋作 奇兵隊 近代化 支配の歴史
初代内閣総理大臣で幕末当時は高杉晋作の弟分として使いっ走りにされていた伊藤博文は高杉晋作をこう評します。
動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し
明治維新の原動力となり天下の勝者となった長州において、高杉晋作が創設した奇兵隊は近代軍備を兼ね備えた勝者の象徴である。
しかし、吉田松陰をはじめ、松下村塾の門下生はもとより高杉晋作も維新直後の萩城下では疎んじられる存在であった。
詰まり、1868年の戊辰戦争の時に武士階級の時代は終焉を告げると供に、高杉晋作は近現代に於ける事実上の軍隊を創りあげたのである。
臣に一策あり。
請う、有志の士を募り一隊を創設し、名づけて奇兵隊といわん
奇兵隊。
身分を問わず志あるものの入隊を認め、近代国家設立のための原動力となす。しかし、武力が必要となるのは乱世と動乱の時代のみ。ひとりでも多く兵力を欲しがった時代は過ぎ去り、戊辰戦争が終結し平和な時代が訪れると、彼らは用なしとなった。
つまり、奇兵隊は維新の後は単なる厄介者でしかなくなった訳である。
藩も有り余る兵力を持て余すこととなり、奇兵隊はいうなれば勝者の中の敗者。近代化に取り残された不満分子と成り果てた。
奇兵隊は長州藩の正規兵とは別に創設された軍隊。藩の正規兵は武士で構成されましたが、武士階級は所詮全体の1割に過ぎず、彼らだけでは戦えないと判断した高杉晋作は、農民であれ商人であれ志があれば入隊を認める規則を設けました。身分制度にうるさい当時の封建社会では画期的な軍隊であった。
奇兵隊は1864年の禁門の変以降、四カ国聯合艦隊との対決、第二次長州征伐(四境戦争)、戊辰戦争と主要な戰場で存在感を増していく。
明治維新後、奇兵隊などの諸隊には総勢五千人にも及ぶ余剰戦力が持て余されました。そのため、藩は半分は兵として残し、もう半分は解散という名を下します。しかし、解散する者と残る者は身分によって区別されたために不満が爆発。
反乱は首謀者たちの斬首、処刑など血を血で洗うようなすさまじい最後を迎えた。
此処でやはり、長州軍の圧倒的な勝利の影は、やはりジャーディー マセソン社のトーマス ブレーク グラバーである。
マセソンとはFreemason、詰まりは国際金融資本勢がいよいよをもって、日本の主権を日本の倒幕を夢見る革命思想を持つ若者を利用して、奪いに来たと見て間違いないと考える。
坂本竜馬が亀山社中、日本で最初の貿易結社を1865年に設立しえたのか。
其れは坂本にグラバーを通じて資金援助がなされ、ミニェー銃など、海外製の7800挺の最新銃を仕入れ、長州派閥や薩摩とビッグビジネスが出来たからである。
坂本竜馬は土佐の一脱藩者だ。
しかし、亀山社中は海援隊、詰まりは日本で最初の海援隊、詰まりは海軍の前身となった。
そして、1867年に大政奉還、無血開城と美名のもと、幕府は倒幕され、1882年に日本銀行が松方正義を初代として、設立した。
半官半民、株持ち合い率は政府が55%、民間、詰まりはロスチャイルド家が45%の持ち合いで、日本は此処に於いて金融主権を奪われたのである。
詰まりは明治維新とは、金融資本勢の日本支配と戦争誘導、巨額賠償、奴隷化の歴史なのである。